肉体労働と約束のインフレについて
この文章は紙の上に書かれたものでないいじょう、実体を伴わない電子マネーやツイッター、プラスチック・ワード(「a life(生命)」や「information(情報)」 などがその例)といったものとの共通項を有しているといえるかもしれない。それらは会話や取引の中で投じられ、人の心に作用することはあっても(例えばこの文章を読んで誰かが不快感を抱く)、波紋だけを残し、どこにも当たらずに深い湖の底に沈んでいくこととなる。けだしそうであったとしても、文章を書くことは依然として有用だ。
そういった趨勢は不可逆的に極まっていくし、第四次産業とかweb2.0とか呼ばれたりして高く評価されることもある。そして、それらに伴って社会の複雑度は増していく。誰もが新聞を購読しなくなり、公衆電話が次々と撤去されていくように、それらはあらかじめ決められたことなのだ。
そんな時代にあって、相対的に価値が急騰する行為がある。肉体労働と約束だ。言うまでもないことだが、肉体労働とは麺を湯切る、弦を震わせて音を奏でる、 あるいは荷物を持ち上げ右から左へ運ぶ、といった労働のことである。それらは実体そのものであり、現実に対して働きかける希少な営為となりつつある。そして、複雑度の高い社会においては、事前に約束を取り交し、その内容を忠実に履行することもまた容易ではない。
まずは気になるあの娘に手紙を書いて、デートの約束を取り交すのもいいかもしれない。もちろん添付ファイルでなく、現実の花を添えて。
YutoSuzuki.Blogより
合コンの席で思ったこと
偏見と先入観の中にこそ、維持すべきものがあると思う。たとえ改宗や修正、昇華を迫られたとしても、である。
昇華。保健体育の授業以来、お目にかからなかった言葉だ。落書きは、はたしてほんとうに木炭デッサンやら油絵やらに昇華するべきなのだろうか。
昇華とは、週末のコンサートやi-phoneや第三のビールやシステム・キッチンや何とか講座やプロ・ショップやFXや大学の履修単位や合コンで知り合った適度にかわいい女の子や、その他挙げていけばきりがないけれど、要するにガイダンスに沿って使用(消費)する商品に慣れていく過程のことだ。ちなみに、最後のはいちおう商品ではないけれど。
世の中には、A4サイズのプリントが収納できるランドセルを造るような仕事だってあるのだ。僕の友達の桜井君は、翅(はね)をむしり取ったキバチをランドセルの中で飼っていて、いつもそれをみんなに自慢していたけれど、昆虫が飼えるランドセルの方がはるかに需要は大きいと思う。
誰かの言っていたことではあるけれど、どんな仕事も(ポスト高度資本主義社会においては)、雪の質や量は違えど、やはり雪かきには違いない。